おはなし(道徳どうとくの時間)ぱなしっ子

五月二十七日

 ぱなしっ子は、かぜの子ではありません。ちゃんとした人間にんげんの子どもです。ですから、学校へも行くし、テレビも見るし、自転車に乗って走り回ったりします。でも、よい子どもとは言えません。そうですね、少しだらしないのか、あるいは何かほかのものに夢中むちゅうでちゃんとやるべきことをわすれているのかもしれません。
 おそらく、むかしのおやたちなら、「そんな様子ようすでは、およめにもらい手がありませんよ。」と言って、しかりつけたでしょう。でも、まだ小学校二、三年生から、およめさんになるときの心配しんぱいをするのは早すぎます。
 しかし、悪いクセは早いうちからなおさないと、そのクセが、ほんとうにクセになって一生いっしょう、その人からはなれてくれないこともあります。いいえ、そういうことが多いのです。ですから、「およめのもらい手がない。」などといわなくてはならないのです。
 ぱなしっ子って何だって? あれあれ、それをまだ申しあげませんでしたか。それがわからなくては、わたしの話もおわかりにならないでしょう。
 ちらかしっぱなしーー電気のつけっぱなしーー食べぱなしーーの「ぱなし」がおとくいの子どもをいうのですよ。そうです。わたしがつけた名まえですので、みなさんがしらないのもムリがありません。
 わたしの家に小学校四年の女の子がいます。そうです。ニワトリーーつまりトリどしの生まれです。ニワトリというのは、足で物をけちらして、ちらかすのがとくいです。もちろん動物ですから、ちらかしたあとをかたづけようなどという気持ちは、ちっともありません。それはしかたのないことです。それでも人間にんげんにタマゴや鳥肉とりにくとなって大いに役立っていますので、人間は何も言わず、鳥小屋をきれいにしてやり、水をやり、エサを毎日あげます。
 でも、わたしの家のニワトリーーいやいや小学四年のむすめのことですが、この子は、人間ですから、「ぱなしっ子」になってはこまります。そこで、「およめにもらい手がない」とか、「ほんとうにニワトリみたいだ!」といっておこるのですが、「ぱなしっ子」はいっこうになおらないのです。
 朝、起きます。ふとんはきっぱなしで、かたづけなくてもまあいいでしょう。でもねま着のぬぎっぱなしはだめです。ついでをみがき、顔をあらうーー顔をふいた手ぬぐいはタオルかけにもどさず、ゆかに落としっぱなしです。こんなちょうしで一日が始まります。ほんとうに「およめのもらい手」がなくなるとこまりますので、あとは省略しょうりゃくしますが、先にも言いましたように、電気のつけっぱなし、とくえの上のちらかしっぱなし、水道のだしっぱなしなど、しっかりしてくれなくてはだめだと思います。
 ようするに、キチンとしていれば、そういうことはないと思います。じつは、わたしも、この間、ステレオのスイッチを入れっぱなしで会社に行ってしまい、このニワトリむすめに見つけられてしまいましたが、これは、わたしが悪かったのですから、反省はんせいして、これからそんな「ぱなしおとな」にならないよう注意するつもりです。
 そうですね。この反省はんせいというのが人間にんげん特長とくちょうなんです。自分のやったことを考えて、よかった、悪かったときめ、悪かったら、もうそういうことは絶対ぜったいにしまいーーと心に決めることが反省はんせいですが、ニワトリや馬などには、この反省がありません。反省すれば、次にまた「ぱなしっ子」になったとしても、「ああ、そうか」と考えつき、少しずつ注意するようになるはずです。そして「およめさんになる」ころには、ほんとうにいい人になっているはずです。
 え?おたくのニワトリむすめは、まだいい人にならないかって? いや、もういい子になりつつありますよ。まだほんとうではありませんが、いまごろは机の前にすわって反省していると思いますよ。いいえ、机の上にアグラをかいたり、ソファの背中せなかこしかけたり、そんなおぎょうぎの悪いことはしません。食事中しょくじちゅうにテレビを見ることもないはずです。
 みなさんも、早く「ぱなしっ子」ではなくなってください。おやがそう言うからというよりも、みなさん自身じしんのためですものね。

おわり


このお話は、今から50年以上前に書かれたもので、我が家では、何か事あるごとに言われ続けてきたお話です。
まさか原稿が残っていたとは・・・。
なんだか懐かしく、温かい気持ちになる父の「おはなし」です。
(娘)

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