手榴弾3発持ちタコツボに生き埋め
俺は生き埋めだ。だんだんと体が土砂で締め付けられる。水筒の中には死水があるのに手が動かせない。左のポケットに手榴弾があるのに手が動かせない。届かない。だんだん目の前が暗くなってきた。
海軍特年兵(14歳で応募)の静翔会の会報「空哉」を、海軍特年兵だった友人が見せてくれた。上掲の文はその一節。昭和20年3月18日の硫黄島の夕刻のことである。三昼夜たち、意識は米軍の野戦病院のベッドの上でよみがえる。
日系二世の米兵が来て、君はよく戦った、といい、タバコをおいていった。
平成11年1月の遺骨収集団の一員として、硫黄島に行ってきたそうである。2万有余の将兵の半分がまだ眠っているという。筆者は大正11年生まれ、静岡県に住む。よく書いてくれた、と思う。貴重な記録である。友人は、前に米映画「硫黄島からの手紙」を見せてくれた。
どういう感想を書き送ったらいいのか、ひたすら迷っている。