富士山へ登り候
流山の富士塚は6メートル 這い登るが下山心配
山路を登りながら、こう考えた。
これは漱石「草枕」の冒頭の1行。30歳の主人公は考えごとをしていて、角石の端を踏み損なう。
流山駅近くの浅間神社に、頂上までわずか6メートルの富士山が屹立している。その山路を登りながら、漱石が踏み損なった角石を思ったが、ここはすべて胸突き八寸の急角度、立って登るのは難しいから這い登らざるを得ない。二合目、三合目という標石もあるけれど、富士山から運んできたという、埋め込まれた溶岩の間には木が生い茂り、登山道を塞ぐ勢いだから、踏み損なっても、社屋の裏までゴロゴロと転がり落ちることはないものの、降りるときのほうが心配になってくる。
それでも山頂に立てばいい気分、マンションや隣家が迫っているけれど。
江戸時代に盛んな富士講の信仰
大正5年発行された『流山案内』に、浅間神社の祭神は木花開那姫命(このはなさくやひめ)で、「正保元年(1644)五月の創建なりと口碑に伝ふ。平坦なる地に厳しく丘を築きしは明治二十四五年頃なりと」とある。
頂上には「富士浅間大神」の石碑が立ち、裏に明治十九年、神武天皇紀元二五四六年とあるのだから、『流山案内』の編集者は、登山を敬遠したのか。また、平坦なる地という境内は258坪で、車の往来の激しい通りに面して鳥居があるが、頂上に登って見下ろせば、山はぎりぎりの面積で築かれ、底辺からさらに何メートルか下がって「民有地」になっている。とても平坦なる地には思えない。
遠近に田を打つ人や初蛙
という句が、『案内』に掲載されていた。平坦でのんびりした風景の中に立つ富士塚を想像するのも楽しい。
江戸時代の頃から、富士山を信仰する人々が集まって富士講をつくり、白衣姿で六根清浄を唱えて登山し祈願した。その信仰はそれぞれの浅間神社に富士塚を築かせた。単なる盛土のところもあり、石祠や石碑となって、各地に信仰は生きている。