人糞汲み下町まで
日暮富雄さんは、納屋の奥から肥え桶を出し、昔のことを話してくれた。下町の糞尿が、この肥え桶の中で揺らされながら運ばれてきた。
「肥え桶よ、ご苦労さまでした」
大家は店子の尻で飯を食い
江戸の川柳である。大家さんは店子の糞尿を農家に売って儲けていたという。昔から糞尿は大切な肥料だった。
逆井でも東京の向島とか四つ木にまで、牛や馬に肥え桶を曳かせて人糞収集に行った。
牛や馬はいなくなり、化学肥料の時代になったが、農家の納屋には肥え桶がしまわれており、風雨にさらされっ放しの肥溜めも残っていて、糞尿を大切にした昔をしのばせる。 朝3時起き、朝飯を食べ、馬には飼い葉を与えて4時出発、葛飾橋あたりで太陽が上がる。曳くのは牛もおり、出発は同じでもばらばらになる。
終戦直後の話である。
葛飾橋には小屋を作って巡査が2人おり、食物とみれば取り締まる。糞尿のお礼には、サツマイモやジャガイモを積んでいるから、それを隠す。
4時間たって8時頃、四つ木に到着、疎開や買出しなどで留守が多い。汲み入れに1時間半、金町の桜の土手で昼食、昼寝、夕方には帰り着く。
タイヤが2つの大きめのリャカーには肥え桶が8個載る。はねるから藁を持ってゆく。この8個分で10軒の糞尿を収集できたそうである。東京人の糞尿は窒素分が多い。肥溜めに1週間置き、発酵させてから畑にまく。
1か月に一度、世話人から連絡が来ると出かける。台風が来て溢れ出したという連絡が来る。みんな薄まっている。それでも付き合いだから出かけて、途中でみんな捨ててきたこともあった。
終戦後2年もたつと、業者が車で収集するようになり、いまのNTTのところに共同の肥溜めができ、それを利用した。
江戸川をのぼって、下肥船が、松戸の主水(もんと)まで糞尿を運び、これを買いに行ったこともあったという。