蝦蟇の油の口上はいつからか
明治・大正時代に、500編を越す紀行文を書いた大町桂月が、「春の筑波山」を散策した文がある。そこに蝦蟇の油は、まったく出てこない。あの口上とパフォーマンスは江戸時代から、と言うことを聞いているが、桂月が看過したとも思えない。
蝦蟇うんぬんは出てくる。しいて筑波山を形容すれば、蝦蟇の目を張って座っていると言い、「筑波の市街は、山腹、即ち蝦蟇の口の上に在りて、屡々鱗次す。」あるいは蝦蟇の油が念頭にあったか。それはわからない。
いまから見れば難字が続々、脅威&驚異の日本語である。「鱗次」とは、ウロコのように順々に並んでいること、明治・大正人は、この紀行文を競って読み、楽しんだのだから立派である。この中には、漢詩、俳句、短歌が相次いで出てくる。読者を喜ばすのだろう。
のどかさや傾城草つむ山の上
「遊女二三人、紐帯のしどけなき姿して、楼前に草積むも、山なればこそ。即興の一句を賦す。」