いまいずこ待道講(まちどうこう)

安産祈願のための女人講


 逆井天神(天満宮)の右側にある祠を開くと、格子の裏側に日暮富雄と書かれている。そこの石祠には待道大権現、寛政12年庚申11月吉日と彫られている。ご本人の日暮さんに聞いてみると、「あれはうちのお稲荷さんだ」という。200年もたつうちに待道という信仰は、歳月の霧のなかに隠れてしまったようである。それでも大権現の石祠は、日暮家の保護のもとにお稲荷さんと合祀されて現存する。稀有なことにも思える。
 この待道大権現は、我孫子、柏、沼南、鎌ヶ谷、流山、野田、取手、松戸という利根川流域にみられる待道講という女人講で、各地に80近い石祠が残されている。柏市内には16基の石祠があり、安永5年の宿連寺(須賀社)が一番古く、続くのは花野井(香取社)で、逆井は3番目になるようである。

 待道講とは何か。子を産む年齢の女性たち信仰された安産祈願の女人講である。我孫子の飯白和子さんは、「待道大権現とマツドッ講」(我孫子市史)で、信仰発生の地を同市岡発戸(おかぼっと)の待道神社としている。そこの玉垣の柱に安永4歳未12月吉日とあり、起源だとする。

 その信仰が早くも宿連寺、花野井に広まり、いまはお稲荷さんになった逆井にも普及したようである。

 待ち道、道で待つとはどういう意味なのだろうか。飯白さんは、あるおばあさんの話を収録している。

 昔、お腹の大きい嫁と旦那の夫婦者がいた。何かの都合で2人が待ち合わせをした。どこでどうまちがえたのか、嫁の方はここの道の側で待っていて、男の方は印旛沼のほとりで嫁の来るのを待っていた.お腹の大きい嫁はなかなか来ない男をじっと待っていた。その内産気づき、道の端にムシロを敷きそこで赤子を産んで死んでしまった。それで道で待つということから待道といわれるようになった。

 
 「生涯現役ときわ会・郷土史友の会」の藤本吉一さんは、お産の不安と恐怖からぬけでるため、女性の開放慰労のために、信仰が広がったとする。末寺の布教、過酷な労働を癒す骨休め、などをあげている。