南北朝の石塔婆


利根運河大師

六十七番札所の旧家も様変わり

 広い屋敷内にある墓地に、元弘4年(1333?)の板碑(石塔婆=写真左)がある。楠木正成が挙兵し、鎌倉幕府の大軍を悩まし、建武の中興なった南北朝の時代である。

 我孫子・関宿線が利根運河の水門のある水堰橋を渡ると、まだ柏市船戸山高野だが、すぐ野田市瀬戸になる。江川耕整記念碑の近くに、24代目という風見一成さんの屋敷がある。板碑はご先祖が建てたということになる。

 利根運河の土手まで見渡せる眺望はすばらしいが、今でも広大な地所は、農地改革で4分の1になったという。左手に利根川と鬼怒川を控え、大水が難事な地域でもある。

 明治23年に利根運河が開削され、利根川から運ばれた荷物の中継点になった。船頭や船客相手の花街が出来、昭和30年代にも数軒の建物が残っていたと風見さんは言う。今は原野のような湿地帯で、花街など想像もできない。

 ここで米を作っても売れない、と風見さんは稲作を止めてしまっている。レース鳩という趣味?があり、国際レースでは優勝し、風見鳩舎は有名らしい。25代目になる息子の正達さんは、いくつかのスーパーの経営者である。旧家も様変わりしている。

4つの祠に祈りを込め

 風見家の左側にある14段の石段を上がると、新しい祠が4つ並んでいる。信仰心の厚い25代目になる正達さんが新築したもので、いちばん奥が大師像の鎮座する利根運河大師67番の札所、その手前に石守神、風見さんは石神さまと呼ぶ2対の男根がどかっと置かれている。その手前は疱瘡神だが、包疾神と彫られている。
 石守神とともに病魔の退散、多産などを祈願したものだろう。村人の信仰を受け継ぎ、正達さんの祖母の倭江さんが毎朝お参りしている。倭江(しずえ)さんの話によると、一番手前は弁財天で、母屋を建てかえたとき、緑色の蛇が出た、これを弁財天として祀ったと言う。素朴な話である。江川大天大女姫と書いた木のお札が見える。
 新築の4つの祠の中に、新旧4つの祈りが込められ、静かに息づいている。

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