暇も熱心もない藪柑子先生


 「郊外の田舎にわずかな地面を求めて、休日ごとにいい空気を吸って頭を養うための隠れ家を作った」という。大正14年のことである。そこへ草花の種子を播くが、ことごとく村の子どもたちのためにむしりとられてしまう。
  しかし、手をつけないものがあった。コスモス、虞美人草、小桜草だった、と書いているのは寺田寅彦である。寺田寅彦というと、藪柑子を思い出す。藪柑子という筆名で書かれたものが中学の教科書にあって、それがいまだ記憶の底に止められていたからだと思う。
 その話をしたら、町内の「野草爺」と名乗る知人が写真のようなヤブコウジを届けてくれた。もうひとつ、実のない鉢もある。野草爺は長男の所に引越しされた。私にとっては藪柑子をもらって、寺田寅彦が復活した。そして上のような文章に出会った。
 寺田は、藪柑子だけでなく、牛頓、閑人、金米糖など、様々な名前を使っていたという。名前を変えると新たな想にたどり着くのであろう。コスモスなど三つの草花と、子どもたちの習性を研究すれば面白いだろうと書いている。ただし、「自分にそれほどの暇もと熱心もない」と。それはそうだろう。