春霞のような金光教

  「群像」6月号で、翻訳家の岸本佐和子と作家の小川洋子が「妄想交換会」という対談をしている。
 その中で、小川は「理論上絶対にありえないことが出発点になっている。ところが、その妄想と頭の中で戯れているうちにそれが、どんどんリアルになっていく。その過程が小説になるんですね」「家が貧乏だから人形を買ってもらえなかったのを、私は人形なんか嫌いだ、だから欲しくないんだと信じ込もうとしていたのかなと思っていたんですね。でも、考えてみたら、もともとそんなに欲しかったわけじゃないと気付きました」
 その小川洋子が金光教(こんこうきょう)の、生まれながらの信者であることを、同じ信者の友人から教えてもらった。
 機関紙らしいものに長文のインタビューが掲載されていて、まことに興味深く読んだ。「博士の愛した数式」「ブラフマンの埋葬」、また「ミーナの行進」も、たまたま読んでいたので、その作者の内奥に入るのも珍しかった。
 「神様や仏様は私たちの伴走者として走ってくださる」というタイトルが、すべてを語る。聞き手の千葉望さんは、真宗大谷派の寺院の娘さんだという。
 小川洋子は、すべてを達観している。でも、それは祖父が金光教の教師で、父母も信者同士という環境の中で、そのまま生まれた達観なのだ。キリストの教会をのぞき、薬師寺展で日光・月光の巨躯の尊厳に感動する人生とは違っている。
 「金光教宣言」には、「大いなる大地に生かされている人間として、すべてのいのちを認め、尊び、神と人、人と人、人と万物があいよかけよで共に生きる世界を実現する」とあるそうだ。聞き手は、「ふんわりした宗教」のような印象を受けたという。「あいよかけよ」がちょっとわからない。岡山の方言か。
 家持の「はしけやし我が奥妻」という愛しい女房よ、という呼びかけが頭を過ぎる。「あいよかけよ」というのは呼びかけであるとして。
 教師は左の耳で信者の悩みなどを聞き、右の耳で神の声を聞くという。カウンセリングの要素が強いらしい。
 「どんな死に方と直面させられても絶望しないために、私にとっては金光教は最後の大事な支えなんです」
 「金光教なんて遠くの霞みたいな風景、それも春霞みたいな風景です。その代わり、何か必要なときに確かにいてくれるのだから十分でしょう。教義も決まりごともゆるやかな、宗教のよさがあります」
 「明日塩辛を食べるからといって、今日水を飲むわけにいかない」という金光大神のことばがあるという。「今から思いわずらってもしようがないことを人間は考えてしまいますけれど、そういうことはやめようと。いいたとえでしょう」
 あすのことは思い煩うな、とはほかの宗教にもあるけれど、小川の言葉には金光教への、揺るぎない確信がある。

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