人称の出てこない小説
教室のかたづけをすませると、四時をすぎていた。
ひさしぶりだから疲れたでしょう、ゆっくり休んでね、店長さんにねぎらわれる。その親切にうしろめたさをぶらさげ、また来週お願いします。
あいさつすると、エレベーターで一階におりた。
あおい空をながめ、ゴーヤを育て、ビールを飲める幸福は、どこかうしろめたく、退屈だった。すべてが望みどおりににそろってみれば、ぜいたくすぎるすぎる毎日にとまどっているかも知れない。どうしてかと、考えるのも面倒になるほどの暑さだった。
石田千の「きなりの糸」(群像10月号)の抜書き。280枚という長編を読んで記憶に残ったところ。。恋人と別れ、編み物の講師をしている。その生活が平明な言葉で続く。レコード店を開く恋人とよりが戻るらしい。
なんの違和感もなく読んだ。アパート暮らし、屋上でゴーヤを育てている。編み物のベテランらしい。
この長編には人称が、まったく出てこない。私もあたしもない。同様に、彼も彼女もない。話し言葉に使う 「 もなく、 」 もない。それで小説は続く。
作者は新しい日本語に挑戦している。「うしろめたいという幸福にとまどっている。」読者は、その平穏さに納得し、もう一度、その主人公の退屈を考える。