大河となるか老人短歌

   携帯電話持たず終らん死んでからまで便利に呼び出されてたまるか
   九十歳の先は幾歳でもいいやうなお天気の中花が咲くなり
      
   寒ければ早う寝ようと言ふ人なし雪降るならむ夜半十二時すぎ
   九十歳になるといへども変りなし同じ土地同じ家にもう五十数年

 上の二首は剛の斉藤史、下は柔の宮英子の歌である。小高賢『老いの歌』(岩波新書)から。「急増する高齢歌人」の中に紹介されている。
 続く「老いの百景」では高齢者の歌詠みの、さまざまが紹介される。すごい収集力である。身体、病気、労働など、さまざまな不都合が起きる。

  物忘れ耳遠くなり常日頃娘の小言さからわずきく
  見舞ひくるる妻の足音待ちにつつ今日の一日の暮れてゆくなり
  吾れよりも物忘れ多き子を思う息子は古希に母は卒寿に
  
  ベッドより降りてよろけて失禁すああ山鳩よしばらく鳴くな

 口語文体が広がる。文語・口語の混交作品も目立つ。筆者の小高氏は、短歌の主流は、この口語短歌ではないかという。
 そして繚乱として咲く「老いの歌」という大河は、短歌という平野に想像以上の養分をもたらすものではないかという。老いという分野の確立は、私たちが体験する初めての世界には違いない。
 静寂に、堂々と「老い」を歌うか。何か決心させる本である。