気の毒な水源の不動


 3本の川が集まり、こんこんとわく湧水が3、4メートルの下に流れ落ちる。それが田んぼをうるおし、日照りの夏は藤心まで利用された。南部小の裏門を出て新逆井の新栄町会に水源の不動様がある。その荒れ果てた堂が、あふれるばかりの水源地だといわれても、にわかには信じられない。

 米作りが、まだ盛んだった時代、なぜ水源を埋めてしまったのか。9人の農家で保有していたが、埋めることに会長ら3役が単独で市にOKを出してしまった。憤慨する者もあったが後の祭りだったという。

 もっとも昭和40年代には近辺の宅地化がすすみ、汚水が流れ込み、小学校などが出来るので仕方がない事情もあったらしい。

 また、裏の道を広げるために1メートルほど前に移動したというから、不動様には迷惑なことだったに違いない。現在は逆井南公園となっているけれど、堂の建て付けも不安な感じで、だいいち堂をもり立てる人間がいないのだ。かつての農家には見離され、新栄町会でも手を出さない。いや手を出せないのが実情らしい。

 以前は堂はしまっていたのに、最近では開けっぱなし、風雨は飛び込むだろうし、不動様の尊厳さは、まさに風前の灯の如し。

 写真の左側の背の高いのが不動尊、浮き彫り、背中の炎にわずかに赤色が残っている。それでも、信仰厚い篤志家がいるのか、ときには蝋燭があがり、菓子の供物も散見される。かたわらにはしだれ桜の若木が4月には見事に咲き、不動尊を慰めていた。


 明王は平安初期に密教と共に日本に入ってきた。代表が不動明王。元来は大日如来の使命を受けて業の深い人間を救う仏だが、造形はインドのヒンズー教で、奴隷の姿をしている。

 上唇を噛み、右手には剣、左手にはけんさくと呼ばれる縄を持ち、背中には焔光という炎を背負う。右手の剣で悪を断ち切り、縄で縛り上げ、それらの悪を炎で焼き尽くして衆生を善に向かわせる。しかし、衆生は煩悩にまぶされ分かってくれない。そこで憤怒の形相をとっている。

 関東には高幡不動、成田不動など不動尊が多い。

(May ‘99)