生きようね、一日でも長く
被爆者の友情が63年後、被爆体験記を書き上げた
柏市の松葉町に住んでいる、さっちゃんは被爆者だ。昨年(平成20年)の広島の平和式典に、グループの人たちが折りあげた千羽鶴を持って参加した。気がかりなことがあった。高校の同窓会を開く手はずになっていたが、白血病になって苦しんでいる、というみっちゃんが来てくれるかどうかだった。そのみっちゃんが来た。48年ぶりの再会、8人の同窓会になった。
さっちゃんは、その感激を私が編集を手伝っている地元の婦人新聞「ウイメンズ・ライフ」に書いてくれた。「知らないまま過ごしてきた旧友の心の中を見せてくれた」と書き、その心の中、強烈過ぎた3歳娘の被爆体験をまとめて置くように頼んだ。私も、さっちゃんの心を汲んで、手紙の交流が始まった。
ことし3月に、みっちゃんから「被爆の記・もみじの手」というA4・24ページの製本された冊子が届いた。

さっちゃんが広島に運んだ千羽鶴
「生きようね、一日でも長く」は、さっちゃんの合言葉。さっちゃんの母も、きのこ雲の光を背中に受け、うじ虫がわき、薬もなく、姉がピンセットで取ったという。その母も91歳まで生きてくれた。 「だから私は93歳まで生きたい。みっちゃん、生きようね、一日でも長く!」
娘ふたりを育て、55歳で原爆症(白血病)。なお続く闘病
被爆直後の広島市役所。近所の人に連れられて、母を待つ。同じ階段に座っていたのに、親子は気がつかない。通りかかった隣人に言われて、やっと気がつく。
火の粉が飛んでくる。瓢箪池の橋の下は火の粉を避ける人でいっぱい。せめてこの子を入れてくれと母が叫ぶがだめ。母は飛んできたトタン板で頭を切り血が出る。娘まで手が回らない。娘は必死になって小さいもみじのような手で、火の粉を払う。
次男は、中学1年の三男を探しに行く。「助けて下さい」と叫んでいる弟ぐらいの学生。両手の皮がぶらさがっている。避難先の己斐小学校まで行ったが見つからない。帰りに「助けて下さい」と言う学生に念のため名前を聞くと弟の静男だった。焼けた上着の下のシャツに名前があった。疲れた兄が、路上で仮眠からさめると、弟は隣で死んでいた。7人きょうだいのうち被爆死したのはこの兄だけだったけれど…。
母は77歳で急性白血病になり、輸血と点滴が続いた。結婚し、娘ふたりを育てたみっちゃんも55歳で原爆症(白血病)になっている。子宮筋腫、リンパ節腫瘍、糖尿病、肺炎、膵臓がん。これ以上どんな病気が忍び寄るか、不安の日々だと書き続ける。悲惨な体験の記憶をたどり、形に残すのは、予想以上につらかった、みっちゃんは言う。
平和記念館の口述筆記の新版『被爆の記憶・もみじの手』もでき、同じ構内の「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」に展示されている。