厳寒と酷暑の戦地にいた

満洲&パラオ Tさん・兵士の軌跡

除隊記念のさかずき

昭和20年、大晦日の復員

 逆井のTさん(95歳)は、昭和10年に召集され、厳寒の満洲に丸3年いた。衛生兵である。除隊して2年後の昭和16年7月23日に再び赤紙が来る。見合い結婚をして2か月半、まだ、新妻の顔もまともに見ておらず、「つらかった」と、ぽつり言う。

それから赤道直下のパラオを入れて4年半、昭和20年の12月31日、大晦日の夜、夢に見た逆井の家の戸を開けた。祖母がいた、父母がいた、妹がいた、2か月半の妻は、土間で縄をなっていた。

4年半はこうなる。大東亜戦争の勃発する昭和16年の7月、東部12連隊に入隊、2年間はハルピンで過ぎた。すでに兵長になっていた。18年になって、横須賀から、日本の委任統治だったミクロネシア諸島のパラオへ。アメリカの潜水艦が出没する中の不穏な出航。その潜水艦に爆薬を投げ込む。輸送船も大揺れに揺れた。

昭和18年3月、まだ空襲はなかった。9月になって艦載機の機銃掃射が始まる。ジャングルは涼しい。防空壕に逃げ込む日々。無差別の爆弾も落ちる。手も足も吹っ飛ばされる兵たちの看護で忙しい。奥に司令官たちの要塞があった。岩石に囲まれ、爆弾にも平然としていた。20年の8月22日、空襲がないことに気がつく。

 Tさんの戦歴は戻って、話は昭和10年になる。徴兵検査は甲種合格、同年9月には召集令が来る。11年2月28日、東京駅集合、広島駅まで軍用列車。宇品港から大連港へ。大連から満鉄、窓は凍っていて見えず、3昼夜を走る。零下20-30度の北安鎮に。

3月の厳寒、兵舎にはペチカが燃えているが、歩哨はつらい。ウサギの毛で編んだ防寒具、帽子の軍服を着ても体の芯まで凍る。雪は降っても風で飛ばされ積もらない。
そして春と夏が一度に来る、9月には霜が降る。兵隊は満人のところには行けない、厳禁だが、Tさんはその農業を観察していた。

1か月の歩兵教育、衛生兵として孫呉の病院で教育5か月、まだ患者のいない孫呉の病院で除隊までの2か年をすごした。

2等兵から1等兵、上等兵に進級。月10円30銭をもらった。14年3月現地除隊、私服でハルピン、大連、横須賀へと帰ってきた。