よみがえる中原淳一
明治41年に創刊され、昭和30年まで続いた雑誌「少女の友」(実業之日本社)の創刊100周年記念号が発行された。日本出版史上もっとも長期にわたる少女雑誌で、黄金期の昭和10年代前半を中心の編集はカラフルな豪華本となり、「少女」たちの雰囲気を伝えている。
明治41年創刊「少女の友」、100周年記念号を発行
昭和10年代に内山基という名編集者が読者との交流をはかり敬慕されていたという。挿し絵を描いていた中原淳一を表紙へ抜擢する。あのでっかい目の美少女は昭和10年1月号の「新春」から登場している。
「私たちの夢を大きく支えていたのは、あのなよなよした、たよりない女の子ばかり描いてみせる中原淳一のさし絵だった」(須賀敦子)
「中原さんの描く少女の目にはいたわりがあったの。これは、女の子にとってすごく大切なものを教えてくれた気がする」(田辺聖子)
その淳一描く表紙絵66点がどさっと紹介されている。年に1枚はページ大である。そして15年の6月が最後となり、「当局の圧力により、退場を余儀なくされた」という。
どんな人だったのか。フアッションデザイナーの芦田淳は、「パーマネントをかけていた、バッグを使っていた、セーターにまでパッドを入れていた」理由を本人に質問したという。でも、それがいまでは普通のことになった。時代に先駆けていた、と書いている。
美しく生きた中原淳一展
松屋創業140周年記念展が3月、銀座で開かれた。
大きな瞳、洗練されたスタイル画など美意識の結晶が淳一画だったという。その原画など500点が展示された。
☆もしこの世の中に、風にゆれる『花』がなかったら、人の心はもっともっと、荒んでいたかもしれない。
☆もしこの世の中に『思いやり』がなかったら、淋しくて、とても生きてはいられない。
☆もしこの世の中に『詩』がなかったなら、人は美しい言葉も知らないままで死んでゆく。
見学者の心にズシンと迫るような淳一の言葉、箴言?が途中途中に貼り出されている。
美しく生きることに生涯をかけた中原淳一、着飾った女性客ばかりの中で、一時代をかくしてきた人を偲んできた。