朗読劇で聞く
原爆ピカッ!

ぼくは、真っ先に、ごうの一番奥へ飛び込んだ。もうそのとき、

ピカッ――と光ってしまった。そしてぼくは、強い風で、ごうのかべにたたきつけられた。

しばらくして、ぼくが外をのぞいてみたら、兄さんも、妹たちも、みんな防空ごうに走りこむのがおそかったので、やけどをして泣いていた。ぼくは防空ごうの入り口に座って、お母さんとお父さんが来るのを待った。

30分もたってからお母さんがようやく来た。血だらけだった。お母さんにすがりついたときのうれしさは、今も忘れない。

お父さんは待てども、待てども現れなかった。

柏・麦わらぼうしの会

逆井小に「柏・麦わらぼうしの会」がやってきた

上の手記は、5歳で被爆した辻本一二夫さんが、4年生になったとき書いたもの。父は帰らず、翌日、母も、やがて兄も妹も死んでしまう。

朗読劇は絶唱となり心に響く。

もう一度、昔に返して、ああ。
お母さんがほしい
お父さんがほしい
兄さんもほしい
妹たちもほしい

原爆で生き続けることのできなかった子どもたち、子を失った母親の悲しみを朗読劇で語る「柏・麦わらぼうしの会」の12人が逆井小にやって来た。聞くのは4年生60人。

(8月6日、午前8時15分、9000度という火の球ができ、閃光と熱線、続いて、強い爆風に襲われた。)

いくつかの手記の朗読が続いた。

手記は4年生、聞いている生徒も4年生だ。この30分足らずの短い時間で、原爆投下ー類のない被爆の酷さが納得されるのか。

しかし、質問はすぐ続いた。

「柏・麦わらぼうしの会」のメンバーはヒロシマ・ナガサキとは縁はなく、戦争さえ体験のない若い世代。ここにひとり被爆者が参加している。長崎被爆の圍(かこい)照子さん。

家の中にいて、光ったのは分からなかった。家全体が爆風で吹き飛ばされた。圍さんはその夜、青い火の燃えている被爆地を渡り、親戚の島原へリャカーをひいて行く。

質問に丁寧に答えていた。生きていたよかったと思ったのはいつですか。思わぬ質問に、どきっとしたという。語り部として貴重な体験、とてもうれしかったという。

生徒たちは被爆した子どもたちを知り、原爆のことだけでなく平和の大切さを聞き取ったようである。